『52ヘルツのクジラたち』町田そのこ

このところ、選ぶ本がビジネス書や何かの研究の本や、そんな堅い本ばかりになっていて、たまには小説読まなきゃな、千鳥でもミュージシャンでもないDaiGoさんも著書(※1)で「共感力上げるには小説をゆっくり読むのがいい」的なこと書いてたしな、というタイミングで悪友に勧められた一冊。

え!著者が同い年!今まで小説家なんてずっと歳上(それこそ北杜夫も中島らもも村上春樹だって、、、)というイメージだったのに、とうとう手に取った本の著者と自分が同い年になってしまった。年齢って気になる。同い年だと、どうしても自分が重ねてきた年月と著者のそれを重ねてしまう。ある程度共有する時代と文化があって、それに触れたか、触れなかったか、触れたとしたらそこから何を感じて、何を感じなかったか、とか。気になる。

というか、結局小説の感想は、読んだ「自分が」何に共感して、何が不快だったか、何に気づかされ、何を胸に刻んだか、しか書けない気がしてきた。その本について語っているように見えても、実際は自分自身について語っている、その本を通して再認識した自分の姿しか見えないような。

そうでもないのかな。とにかく、ここから下は結構な自分語りになると思う。

★★★

読書中、ずっと頭の隅で感じていたのは、「どうして誰もがexclusiveな関係性を求めるんだろう?」ということだった。
作中、暴力や嘘や因縁を用いて他人を隷従させたがる人々が繰り返し登場する。異物を自分達の望む色に染めたがる閉鎖的なコミュニティがある。「妾」という関係性を異常に嫌う雰囲気がある。そしてそれらの軋轢で押し潰されていく人がいる。根本的な原因は、人が他者に、自分に対し排他的/閉鎖的/除外的であるべきと求めるところにあるんじゃないかと思う。

「誰かを愛する」ということと「誰か以外の人を愛さない」ということは同義なんだろうか?関係性の捕食者達はそんなの当然だろと言い、暴力的にそのルールを強要する(が、自分自身には適用されない、、まさにラブジャイアン(※2))

多分、関係性の捕食者達が捕食的なのは、捕食してしまわないと不安なんだと思う。自分達全てが根源的に、どうしようもなく自由で奔放だという事実に抗うためにお伽話や契約書や指輪で枷を嵌めようとする。そうじゃない、誰かを愛するということが排他的、捕食的にならない方法があるはずだ、それが52ヘルツの通奏低音(高音?)の意味なんだろうと思う。

ぼく自身もまた、何かに擬態し、関係性の捕食者達をうまくかわしながら、52ヘルツを発し、52ヘルツを探し続けているんだろう。そのひとつと既に出会えている時点でぼくは大変な幸せ者で、その声を絶やさないよう全力を尽くすべきだと思う。

<<注記>>
※1 どの本だったか忘れた、、トロント大学の研究によると、共感能力を高めるのに、小説をゆっくり感情移入して読むのが効くらしいよ。
※2 漫画『ひともんちゃくなら喜んで』が初出?(多分)の語。「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」まさにジャイアン。

<<その他>>
・「玄関の引き戸がほとほとと鳴った」って表現、すごい素敵。
・漢字の読み仮名が異常に多くない?最近の小説ってみんなこんな感じなのかなぁ?気になって若干読みづらかった。
・愛情と排他性については、メキシコ映画『天国の口、終りの楽園(原題y tu mamá también)』を思い出した。1人の女性を取り合って男前の友達同士が喧嘩し始めると、女性が「あんたら犬の縄張り争いみたいにケンカしてんじゃねーよ」とキレるシーンとか。ガエルガルシアベルナルがマジセクシー

 

shoguito

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