(レビュー)『「空気」と「世間」』鴻上尚史

外国人(主に欧米人)に比べて日本人がいかに特殊かという話は、なぜか日本人は大好きで、結論は「だろ?だから日本人はダメなんだよ、欧米を見習わないと!」か「だろ?だから日本人には欧米のやり方は合わないんだよ、このまんまでいいじゃん!」のどちらかになる場合が多いですが、でもここ最近は「だろ?だから日本は実は凄いんだよ、欧米にも認められてるじゃん!」という話が増えてきて、こういう態度をどうしたらいいんだろうなと考えています。

 

まあいいや、話がずれました。ドイツでサラリーマンをしていた時、日本人特有の意思決定や謎行動の裏側にある心理を現地スタッフに説明したいと思い、「世間」という概念を用いて解説を試みたことがありました。

 

ドイツ人と日本人の「個人」と「社会」の感覚について 

 

結論として言いたかったのは、「社会の抑圧に対して、ドイツ人は個人が基本的にひとりで相対しなければならない。だから、強靭な個人意識が必要。一方日本人は、社会の圧力に対して”身内”という防護システムがあるので、個人意識はそんなに強くなくても大丈夫」というものでした。

 

文章は拙いものの、社会人になって3−4年のぺーぺーが書いたにしては上出来だと自画自賛です。だって、今回読んだ本『「空気」と「世間」』と、けっこう近い視点で観察できていると思うからです。やるな俺。

 

もとい。読みながら幾つか思った事をメモ。

 

・「社会」という語が創られたのが明治10年、「個人」は明治17年。「社会」は民主主義を説明するために翻訳されたが、結局それ以前から使われていた「世間」という語に取って代わることはできず、現在まで「社会」と「世間」は表と裏のような関係にある。この辺に、日本の政治が陳情的である理由がある気がする。

・ヨーロッパの個人主義の起源は、1215年の第4回ラテラノ公会議で、”すべての信徒に、最低年一回の聖体拝領と告解を義務付け”たところに遡る。

西欧の個人は神という絶対的なものに対して自己を確認しようという姿勢の中で生まれたのである。(『「世間」への旅』阿部謹也)

・「空気」が、時に合理的とはほど遠い意思決定をさせ、多数決など関係無く絶対化・凶暴化することがあるということ。「空気」の暴走に対処するために、山本七平は理詰めの意見で「水を差す」ことを提案しているし、鴻上氏は記述・発信の対象を「社会」(=合理的で変革可能)に切り替えることを言っている。それは柄谷行人的に言うと「異質な言語ゲームに属する他者とのコミュニケーションを導入」することにも、ダニエル・カーネマンの「システム2」にもつながってくる。

・「席確保に置いた物が盗まれない」と「電車で席をゆずらない」の対関係は、「欧米人に異常に優しい」と「中韓人に異常に厳しい」の対関係と対比することができるんじゃないか、と。つまり、同じ「空気」を共有する/しない中で、さらに下位/上位の何らかの条件が加わると発動する現象というかなんというか。(例えば、前者を折口学のマレビト的な考え方で説明したような本とか無いかしら。)

 

もう寝るべきか。

shoguito

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