集団と組織についての考察

昨日、大学時代の悪友と久々に会って、酒飲みに行ったんですよ。

 

彼とは1年半ぶりに出会い頭にベルリンのユダヤ人博物館の建築物の外観について論じ合うぐらいの奇妙な仲なんですが、昨日はひとつ、あぁオマエの言ってることすごいわかるぞというテーマがあったので、忘れないうちにメモします。

彼に言わせると、集団には二種類あって、ひとつは命令に貫かれた集団、もうひとつは目的に貫かれた集団。

 

命令に貫かれた集団は、普通の会社とかを想像してもらえれば。例えばぼくの前の会社はクルマのエアコン売ってるんですが、ぼくが私的にめちゃめちゃクルマのエアコンが好きで、もぅうちの会社のエアコン最高!夜も抱いて寝たいくらい!とか思ってるわけじゃないんですよね。ぼくがこのエアコン売ろうとするのは、それが上司の命令であって、背けば首を切られるからです。そういう集団は命令によって貫かれた堅固なヒエラルキー構造を持ち、個々のエージェント(その集団を構成している各人)は組織化される。恐らく、「命令によって上から貫かれながら自己組織化を繰り返す集団」という言い方をしても間違いないと思う。

 

(公的な自己/私的な自己の対立を想像しながら書いてます。もっと言えば、いつかどこかで小林よしのり氏が書いてた「公⇔私」「集⇔個」の対立を想像しながら書いてます。)

 

一方、目的に貫かれた集団は、逆なんですね、ある目的があって、ぼくはその目的を私的に信奉していて、そこに至るために思考・行動する。集団に対する命令は無く、それが集団として成り立っているのは、ひとえにその目的を共有しているという意識のため。目的の前に、個々のエージェントはそれぞれ独立している(横並び)。

 

こんな集団は、どんな集団?宗教集団が最たる例でしょう。上記文章の「目的」という字を「神」に換えても、キレイに意味が通ります。

 

と、こんな話をしてたんですが、この話が非常に面白いと思ったのは、つい前日に別の悪友に陥れられ、なんか某有名ネットワークビジネスのセミナーに参加したからです。まぁ話はある程度ポジティブに理解したんですが、何か胡散臭い雰囲気が残ってた。なんだろう、この胡散臭い感覚は??とずっと考えてて、答えは、その集団が「目的に貫かれた集団」だからだってことに気づいたんです。

 

ぼくらは、恐らく殆どの人は、命令に貫かれた集団に属してるのだと思う。そこでは公と私が分断されていて、ある意味で「二重生活」になっている。ところが目的に貫かれた集団では、公と私の境界線が限りなく曖昧になり、だからこそ個々人の仕事量が二倍になる。そりゃ強いわけだよ・・・そしてその強靭さや生命力は外部から見て脅威に映るのだろう。それがぼくらが感じる(恐怖から来る)胡散臭さの原因なのだろう。

 

もうちょっと突っ込んでみると、目的に貫かれた集団が、利益分配構造によって自己組織化をはじめると、めちゃめちゃ強くなるという事も言えるんじゃないでしょうか。カトリック教会然り・・・

 

いずれにしてもそのアムウェイのセミナーは初体験という事で非常に興味深かった。但し、哲学的な深さは感じられませんでしたけどね。ヌルかった(笑 ちょっと辛口)

 

ぼく、公私共に胡散臭くなっていってるなぁ・・・・仕事始める前に、チベットか高野山にでも篭って修行した方がええんとちゃうかと真面目に思う27歳の秋。合掌。

注:アイキャッチ画像はドイツ・アーヘン大聖堂の宝物庫にある黄金の右手のオブジェ。中世カトリックの世界はなんだか黄金キンキラキンで、豊臣秀吉的な成金的な何かを感じてしまったり。

shoguito

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