『現代言語論―ソシュール フロイト ウィトゲンシュタイン』立川健二・山田広昭/新曜社 を読んで。

(大学生の頃に、背伸びに背伸びを重ねて書いたレポートです。)

 

まずはソシュールを機軸にして、「システム・構造としての言語」を記号論的な視点からみていきます。


ソシュールは言語学の世界のみならず、他の様々な学問分野に影響を与えたスイスの言語学者です。彼の何が凄かったのか。一言で言えば、<記号論的な視点>を提示した、という点です。それは

「第一に、われわれ人間は「意味をになったもの」、すなわち記号しか認識することができないということ。そして第二に、記号とはそれ自身のなかに意味をもっているのではなく、それをとりまく他の記号たちとの<関係のネットワーク>、すなわちシステムのなかでしか意味をもちえないということ。つまり、記号とは、実体ではなく、関係的・相対的な存在であるということ」(p22)


を示しています。

まず、記号という語について考えていきましょう。

「文字や言葉だけが記号ではない。また、道路標識や交通信号、化学式や商品のブランド・マークといった人工的な「しるし」だけが記号なのではない。あなたが目にし耳にするもののすべて、あなたが考えたり想像したりするもののすべて、要するにあなたにとって<意味>をもつすべてのものが記号なのだ。」(p20)



例えば信号機が青になれば、あなたは「わたってもよい」という<意味>にうけとり、横断歩道をわたる。昔々の日本では、好きな人が夢に現れれば、その人は自分を想ってくれているという<意味>であったらしい(出所は不明)。なんとも都合のいいハナシだ。

さて、上記した第一ポイント“われわれは記号しか認識することができない”に戻ると、それはつまり、私たちは何らかの記号に相対する際、何らかの解釈を施すというやり方でのみ<意味>を扱っているに過ぎない、ということです。先程の「なんとも都合のいいハナシ」をもういちど例に挙げれば、まずあなたは「大好きなAさんの夢をみる」という記号に出くわす。そこで、古代人のあなたはそれを「Aさんはぼくを想ってくれている」という<意味>に解釈するのです。

さて、それでは第二ポイント“記号は他の記号との<関係のネットワーク>、すなわちシステムのなかでしか意味を持ち得ない”について考えてみましょう。例えば「牛」という語は、何を<意味>するでしょうか。うーん、そう訊かれると返事に困る。答えを言えば、それは「馬」ではなく「羊」ではなく「山羊」ではないもの、という言い方、つまり他の記号の否定によってしか捉えられないということになります。言い換えれば、「牛」という語は<牛>存在そのものと不可避的に結びついているのではなく、あくまで他の記号の否定、つまりシステム内におけるそれらとの差異によっているということです。しかもそれぞれの記号は恣意的である。「牛」が<牛>を意味するということには何の根拠も無い、他の記号についてもそれが言える、そして言語とはそのような無根拠性の上に成立しているのです。

ものすごいおおざっぱですが、これら二つのポイントを通じてソシュールが試みているのは、19世紀の比較・歴史言語学が前提としていた言語=実体という観点を徹底的に批判し、言語にはいかなる実体も与えられてはおらず、すべては視点(「語る主体」、正確には「聴く主体」の視点(注))であるという存在=認識論を展開することです。彼以降、まさに学問の垣根を越えて、構造主義やら、記号論やら、構造主義的精神分析やら、精神分析的記号論やらに(・・・。)発展していくのですが、その辺の流れを、ぼちぼち、みていくことにしましょう。

(注:「主体は記号しか認識し得ない」ということは「主体は差異しか認識し得ない」ということと同じであるが、これは主体が<意味>を了解するという体験を前提としている。つまりソシュールの「語る主体」は、実際には発話の主体ではなく、他人の言葉の<意味>を了解しようとする主体、すなわち「聴く主体」である。)

 ソシュールが提出した有名な考え方のひとつに「共時態」「通時態」というものがあります。平たく言えば、「共時態」とは言語のシステムとしての静的(スタティック)な面、「通時態」とは言語が歴史を通じて変化していくという意味での動的(ダイナミック)な面をそれぞれ指しています。

「共時態」について、もう少し具体的にいきましょう。あなたがわたしと話ができるのは、わたしたちがあるシステムを理解し、その構造に基づいて発話しているからです。私は小さい頃なぜか「タクシー」という語が<霊柩車>を指していると勘違いしていましたが、もしそれを今でも正しいものだと思い込んでいたならあなたとの対話は本当に奇妙なものとなるでしょう。こういう事態がそう頻繁におきないのは、私たちが日本語を細かい修正を繰り返しながら習得してきたからです(小さい子供と喋るとき、たまに「話が通じない」と感じることがある)。フランスの文芸批評家・記号学者のロラン・バルトは言語のそんな一面をロゴスのポリティックという表現でより強く規定します。「つまり、われわれが内的な意志にしたがって自由にものを語り、自由に生きていると想っているのは幻想にすぎず、現実には言語=権力の網の目にがんじがらめになっている、ということである。」(p62)それは、私たち人間が「意味という病にとりつかれた存在」(p21)であり、事物そのものを見つめることのできる精神的・身体的な強靭さをもたないため、世界に<意味>を与え、抽象化=記号化せざるをえないと言い換えることもできます。(注)。また、フランスの哲学者・批評家のジャン=ジョゼフ・グーによれば、このように世界を記号化することが可能なのは、私たちが「象徴化能力」という、「現実に存在するありとあらゆる差異・変化のなかから「不変のもの」、「同一のもの」を取り出す能力」(p71)を持っているかららしい。

そして、この「共時態」は、ソシュールの第二ポイントで前述したように、ただ記号同士の差異としてのみ在る<関係のネットワーク>なのです。フランスの哲学者ジャック・デリダは<戯れ>という言葉で、超越的な何者かが不在であり、実体の無い、恣意的なこのネットワークを表しています。

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(注;この観点からホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編『不死の人フネス』を読むと面白い。またボルヘスは、詩の観点から“言語のテロス(目的)とアルケー(起源)”について言及している。テロスとは“システムとしての言語”つまり「共時態」的な「構造としての言語」であり、アルケーとは「語が指示対象そのものであるような語」つまりオグデンとリチャーズの図に従えば「記号内容を持たない語」シニフィエなきシニフィアン、「固有名詞」である。詩人はテロス的には、普段は静的である記号表記(シニフィアン)と指示対象のつながりを“破線”にし、ダイナミックなものを持ち込もうとし、アルケー的には「指示対象そのもの」を言語化しようとする。それは結局テロスの中でアルケーを創造する、すなわち“使い古された語をもって語を創造する”という不可能な試みであり、詩人はそれを強いられているという。)

さて、それでは「通時態」はどうでしょうか。もう一度「昔々の日本では、好きな人が夢に現れれば、その人は自分を想ってくれているという<意味>であったらしい」という話を例に挙げてみましょう。私は「“古代人の”あなたはそれを「Aさんはぼくを想ってくれている」という<意味>に解釈する」と書きましたが、、“現代人の”あなたは多分そのような解釈はしないでしょう。むしろ、「ぼくはAさんのことを四六時中考えているから、彼女はぼくの無意識にまで忍び込んで、ぼくはこんな夢をみてしまうのだ」と考えた方が自然です。つまり、解釈が時代を経て変わってしまったのです。うーん。こんなまどろっこしい例を挙げずとも、例はたくさんある。さっきTVでさかなクンが、「魚の「まぐろ」は、昔冷蔵がしっかりできなくて、身がすぐに真っ黒になったところからきてる」と言ってましたし。

つまり、一方から他方へと流れつづける時間の中で言語というシステムを考えた場合、それは決して不変のものではなく、変化を繰り返しながら「現在」に至っているということです。この観点から眺めると、言語とは動的であります。さらに「聴く主体」という「視点」を考慮に入れるなら、この言語のダイナミズムは主体の視点を逃れ去っていく、と言うことができます。簡単に言えば、言語は時々刻々と変化し続けるが、その変化は主体の意識を擦り抜けるので、主体は自分が“無意識的に”その変化に加担しているにもかかわらず、生まれてから死ぬまでずっと同じ言語を話していると感じているということです。

アメリカの言語学者・人類学者のエドワード・サピアも、ある一定の方向へ言語を(あるいは文化を)突き動かしていくこの無意識的な力の流れに着目し、駆流(drift)と名づけています。「通時態」とは、この無意識的な力の流れ、共時態と共時態の狭間に位置する象徴化し得ない出来事そのものなのです。デンマークの言語学者ルイ・イェルムスレウはソシュールが「通時態」とした言語のダイナミズムをむしろ「共時態」の中に見出しています。

さて、 ここまではソシュールを機軸として“構造・システムとしての言語”について書いてきましたが、ここからはフロイト的精神分析の観点からの言語について考えていきたいと思います。

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フロイトといえば「「無意識」を“発見した”人」と言われるようですが、フロイトは「「無意識」を“発明”した人」だと言ったほうがいいと思います。なんでだろう?なぜなら、無意識とは主体できない領域を指すのだから“発見”は不可能であり、だからこそフロイトはヒステリーや夢の研究を通じて「そこに無意識が在る」ではなく「そこに無意識が在らなければならない」という解釈に至ったからです。「無意識を意識することが不可能である」ということは、「無意識は語表象が不可能である」ということとほぼ同義であります。(前期?)フロイトは無意識と意識の間に前意識という領域を設定し、それは無意識が語表象(意識の“力”)によって意味内容を拘束されたものであり、そこにたち現れるもの(夢等の“痕跡”)は意識可能である、いや、それらをもってしか無意識は追いかけられないとしました。左の図を参考にして頂ければこれ幸い。

この概念から窺えるのは、彼にとって言語とは「無意識が痕跡を残す場(言語のなかの無意識)」であり、また「無意識の意識化の条件(無意識のなかの言語)」であるということです。 これは、ソシュール的に考えれば、まさにそれぞれ「通時態」「共時態」としての言語を言い当てていると言えます。

さて、次に、言語使用論的視点からハナシを進めていきたいと思います。うーん。「言語使用論的視点」とは何か?例えば、ぼくがあなたに「タバコ持ってる?」と訊く。あなたはどうするだろうか。まさか「持ってるよ」と答えてそのまま、というワケはないでしょう。あなたが気前のいい人なら、「持ってるよ」と言いながらぼくに一本差し出し、火までつけてくれるかもしれない。それは、ぼくがその質問に、タバコの所持の有無の確認以上の<意味>を込め、あなたもまたその<意味>を読み取るからです。

この例で、「タバコ持ってる?」という文の文法的な<意味>を「言語的意味」、わたしが込め、あなたが読み取った言外の言葉の<意味>を「語用論的意味」と呼ぶことにしましょう。「語用論的意味」とはまさに文法的、言語的な意味解釈では捉えきれない<意味>を指し、それがまさにウィトゲンシュタインの言う「言語とは用法である」を指すのです。それでは、この「語用論的意味」について、上記の例を踏まえながらもうすこし見ていきましょう。

誤解のないように言い直しておくと、ぼくが「タバコ持ってる?」と尋ねるのを聞いてあなたが持っていたタバコを差し出すという一連の「行為」は、ぼくがその質問の中に「タバコが吸いたいから一本ください」という<意味>を込めたからあなたがそれを読み取ったわけではなく、わたしが発話したその言語外的状況において、「タバコ持ってる?」という発話は対話の当事者にとって既に「タバコが吸いたいから一本ください」という<意味>を含んでいるということです。言い換えれば、言語外的状況が変われば<意味>も変わる、すなわちこの観点からは「対話は常に一回的である」ということが言えます。例えば高校生のあなたが持ち物検査の際教師に「タバコ持ってる?」と聞かれても、あなたは決してそれを「タバコが吸いたいから一本ください」という<意味>にはとらないでしょう。

しかし、言語外的状況によって変化する「語用論的意味」は対話する二人の間で、もっと言えばそれを解する共同体の中で共有されているからこそ、上記の例のような、発信者と受信者が口に出さない<意味>を共有するということが可能なのです。この意味で、「語用論的意味」はコード化されている、と言うことができます。

とは言っても、それは言語外的状況に左右されるが故に確固としたものではなく、全ての状況下で対話の当事者がその「語用論的意味」を相互に解するとは言えない、むしろ、「語用論的意味」の取り違えによるディスコミュニケーションは日常的なものであります。あなたがぼくに「明日は雨が降るらしいよ」と言う時、その<意味>は「明日は傘を忘れないようにね」なのか、 「デートに行くのをやめにしよう」なのか、それともただの情報として提示しているだけなのか、ぼくには判然としない。それどころかあなたも、ぼくがどのような<意味>でそれを受け取るのかはわからない。また、「明日は雨が降るらしいよ」とあなたが言うのを聞いて、ぼくは即座に「デートの中止」と読み取るかもしれない、あなたが「そういう意味で言ったんじゃない」(注)にもかかわらず。

つまり「語用論的意味」とは、何かを口に出して言った瞬間に聞き手は解釈を強いられ、話し手もまたある受け取られ方を考慮(願望)している(しかし受け取られ方を決定することはできない)という意味で、両者に対するひとつの拘束力であるということができるでしょう。この拘束力は日常的なディスコミュニケーションの、突き詰めれば言語・コミュニケーションの持つ本来的な危うさから発します。言語・コミュニケーションの危うさとはつまり、言語には根拠が無い、コミュニケーションが可能であるという保証はどこにも無いということです。

(注;前述したフロイトの考えを引き合いに出せば、無意識が語表象によって意味内容を拘束された「無意識の痕跡」が「語用論的意味」として現れることがある。



「精神分析とは、何よりもまず、対話関係のなかにおかれた他者に向けられた言葉である」(p153)とあるように、“対話”は精神分析のなかで重要な部分を占めている。なぜなら精神分析の目的とは“痕跡”の結び目を順番にたどってひとつのポイントに辿り着くという試みであり、その“痕跡”は前述したように語表象によって意味内容を拘束されたもの、すなわち言語であって、それは分析医と患者の対話を通して意識されていくものだからだ。「たとえば、もし誰かが「これはあなたのことをいっているのではありませんが」と前置きをして、なんらかの非難を始めたとすれば、わたしはそれをわたしについての非難と解釈するだろう。そしてもちろんわたしは正しく解釈しているのである。これは否定表現が普通にもっている語用論的力である。」(p153、下線筆者)とあるが、フロイトが患者との対話のなかで見出す「否定」はまさにこの種類の否定、否定の「語用論的な<意味>」なのである)

普段、関係性のシステムが安定しているとき、そんな言語の無根拠性は意識されず、少々の日常的なディスコミュニケーションも気にならない、なぜなら、あなたは根本的に「他者と意思疎通ができる」と思っているからです。しかし、例えばある「出来事」によって、その安定したシステムはもろくも崩壊し、あなたは言語の危うさを、そして「語用論的意味」の拘束力を肌で感じるようになります。具体的に「出来事」とは、ウィトゲンシュタインならば「母語ではない共同体」であろうし、山田/立川(この本の著者です)のモデルに従えば「ある女性」ということになります(これについてはまた、後ほど。)。あなたが外国、どこでもいいけど、例えばインドを旅行するとき、あなたは意志の疎通もままならない、赤子同然の状態にある自分を発見します。あなたはそこで、(もしコミュニケーションを図りたいなら)その土地の言語コードを学ばなければならないのです。この国であなたは言うまでもなく、かつて日本において当然であったような、他者と同じ言語能力でのコミュニケーションは不可能であり、常に学ぶ立場、他者と非対称な立場に置かれます。このような変化は、ソシュール的な「聴く―話す立場」(対称的コミュニケーション)からウィトゲンシュタイン的な「教える―学ぶ立場」(非対称的コミュニケーション)への視点の移行です。

山田/立川の「誘惑する立場」というのも、視点の移行という点では似ているが、生のリアリティに即しているという点で興味深いものです。ある人を好きになったとき、あなたはその人の言葉、行為、しぐさのひとつひとつに何らかの<意味>を読み取ろうと懸命になる、あるいは、読み取ってしまうということを体験する。そこは既にソシュール的な対称的コミュニケーションではなく、非対称的コミュニケーション、あるいはディスコミュニケーションの場と言ってもいいかもしれません。あなたはその人に愛して欲しいから、なんとかして彼を「誘惑」しようとする、しかし困難なことに、ふたりの恋愛に関する語用論的意味の共通のボキャブラリー(共通コード)が少なすぎるか、存在しないのです。つまり、あなたが懸命に、「明日は暇ですか?」や「彼女はいますか?」や、あるいは「あなたを愛しています」という言葉で「あなたを愛しています」という<意味>を読んでもらいたいと願うのに、彼には通じないのです。ここであなたはまさしく「コミュニケーションの危うさ」(「コードなき地点でのコミュニケーションの危機」(p229))を体験するのです。

山田/立川のこの立場から、柄谷行人の「対話は、言語ゲーム(規則)を共有しない者との間にのみある。そして、他者とは、自分と言語ゲームを共有しない者のことでなければならない。」(『探求Ⅰ』)という言葉を読み直すのは興味深いと思われます。すなわち「自分と言語ゲームを共有しない者」とは単に外国人という意味に留まらず、上記のように、愛という負荷によって「コミュニケーションの危うさ」を白日の下にさらすような対話を強いる者もまたそれに当たると思います。ただ、母語を異にする者同士の対話では、「語用論的意味」の問題のみならず「言語的意味」の問題も頻繁に表面化するという違いはあると思いますが。

さて、長々と書いてきたレポートもそろそろおしまいです。ほんとうに尻切れトンボな終り方に見えますが、後ろの方(特に「誘惑」の項)がぼくが結構共感して読んだ部分です。書いた時間帯によって文章のテンションもまちまちです。ぶわぁって書いたのでちゃんとした文章になってるかどうかも不安です。少しづつ修正していこうと思っています。結局あんまり要約にはなりませんでした。申し訳ありません。ほんとに。

最後に、上に挙げた柄谷行人の文章の続きを書いてしまおう。お気に入りなんです。

「・・・独我論を批判するためには、他者を、あるいは、異質な言語ゲームに属する他者とのコミュニケーションを導入するしかない。」

 

『現代言語論―ソシュール フロイト ウィトゲンシュタイン』立川健二・山田広昭/新曜社

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